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旅と私

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私が旅をするようになったきっかけとその記憶を自伝風にまとめてみました。

1.旅に惹かれた土台とその記憶

 埼玉県は東北本線の沿線の実家で生まれた私は、毎日列車を見ながら育ちました。
 私が旅好きなったもとをたどるとすれば、これが土台になったのではないだろうかと思います。当時私は、沿線を行き交う東北本線や高崎線の特急列車や急行列車の車両が通過していく姿、小さな貨車を何十台も連ねた貨物列車を本当に飽きることなく眺めていました。北へ行く新幹線も通っていない、それこそ在来線が大幹線だった昭和54年頃の話です。
 ちょうど、「蕨を走った列車たち」というサイトにあるような風景を毎日のように見ていたわけです。

 そんなある日、列車の行先というものに非常に興味を持ちはじめました。
 水上、仙台、秋田、会津若松…列車の行き先表示にあったこれらの地名…。文字の読み方は親から教えてもらいました。思えば漢字はこうした行先標の駅名で覚えていきました。これらの字面や読み方を見るたび、聞くたびに、幼年期の私は、未知の世界の存在を認知するとともに、これらに対する興味を覚えるようになりました。同時に、いつかはそこへ行ってみたいと秘かに思っていたに違いありませんし、そう思っていなくとも、どんな場所なのだろうかという想像は絶えませんでした。

 もうひとつの、私が旅に惹かれるきっかけは、といえば、幼児期(4〜6歳)や少年期(9〜10歳)ころに見た、松本零士原作のテレビアニメーション、「銀河鉄道999」にあるのではないかと思います。本放送は1978年〜1981年でしたが、再放送が1984年頃に行われていました。

 あの物語の中で表現されているメッセージは当時の私には理解できなかったにせよ、C62型蒸気機関車が牽引する旧型客車の、向かい合わせの座席に座る鉄郎とメーテルの姿は、子ども心に何らかの影響を与えたに違いありません。通勤電車しか乗ったことのない私にとっては、向かい合わせの座席というものが非常に高貴なものに思えたわけです。

 思えば幼稚園のころ、自由画帳に電車の絵しか描いていませんでした。先生に「電車以外の絵を描いてみたら」といわれ、困惑した覚えもあります。寝ても醒めても私の家の外には列車しか走っていなかったわけですから、無理もありません。ちなみに、当時のスケッチブック(「じゆうがちょう」と表紙に書いてある)によく描いたのは、京浜東北線の水色103系電車で、屋根のグローブ形ベンチレーターや冷房装置もしっかり描いてありました。中には郵便車クモユ141形が描かれており、なんでこのような車両を絵の題材にしたのかと思うのですが、区分棚の明かり窓がユニークだと子供心に感じたのだと思います。

2.持つべくして持った鉄道趣味

 1982年、親の転勤の関係で関東北部の高崎へ引っ越し、近くで列車を見るという機会から離れることになりました。が、多くの自然が残る地域に住むことになったため、今でもそのような地になつかしさとあこがれを持っています。川で遊んだり、土手を滑ったり、野草を採って食べたり、転んで痛い思いをしたり…こうした記憶は決して忘れることはありません。

 そのような中でも、鉄道趣味は消えることはありませんでした。幼年期に体験した記憶を確かなものにするため、さまざまな鉄道関係の図鑑や書籍を読み始めました。小学校の図書館にはこうした本がたくさんありました。車番の付け方から、荷物車や試験車といった事業用車に至るまでの基本的知識は、この時期に習得しました。

 書店にも小学生向けの鉄道関連書籍がたくさん並んでいました。中でもよく読んだのが小学館から発売されていた「コロタン文庫」と呼ばれる本です。これは本がボロボロになるまで読みました。小学生向けだからといっても、決して手抜きをしているわけではなく、現在巷に出回っている鉄道雑誌よりも詳細に、かつマニアックに記述していた記憶があります。子供向けだからと媚びない、こうした本が現在の時代にないのは本当に残念でなりません。この手の本はかなり年輩の方が執筆されているのか、文体がしっかりしており、「かつて」や「すこぶる」、「いわゆる」といったことばを知ったのはこの「コロタン文庫」でした。

 また、国鉄職員だった祖父にねだってもらった「時刻表」をボロボロになるまで眺めていました。漢字や地名は時刻表を通じてさらに覚えることができました。漢字を覚えるなら時刻表が一番だと今でも思います。「鉄道線路図」という当時の国鉄関係者が持つ、貨物線までが掲載されている全国路線図ももらったことがあります。これは今でも大事に保存してあります。

 1984年、再び引っ越すことになりました。この時代に私が体験、経験したことが、現在になっても多大な影響を与えています。鉄道とは話題が離れますが、幼年期に見た「銀河鉄道999」や堺正章の「西遊記」が再放送され、再び感銘を受けます。同時に解散したはずの「ゴダイゴ」の歌にも興味を覚え、「西遊記」の主題歌をテープに録音して何度も聞いていたのもこのころでした。私の音楽の趣味がこのころに決定したともいえます。9歳、10歳というのはどうでもいいものまでいろいろと吸収するものなのです。そして、その「どうでもいいもの」と思えるものほど、個々人にとっては決して忘れることのできない記憶なのです。

 翌年の1985年には東北新幹線が上野まで開業し、科学博覧会が開催されました。その一方で幼年時代に頻繁に見ていた、東京に向かうときにいつも乗っていた急行列車が消えていきました。

 1986年、再び埼玉の生家に戻ることになりました。このときになると沿線から見える列車のほとんどが普通列車ばかりでしたが、それでも通過する列車の姿を眺めるのは好きでした。その1年後、国鉄がJRになりました。今までの国鉄車両に「JR」のロゴマークがついた姿はどことなく不自然で、しばらく慣れずにいたのを覚えています。

 沿線に住み続けていると、通過する列車の音を時報代わりにするという特殊技能を身に付けることができます。
機関車と客車の音で「あれは急行能登だから21時過ぎだ」とか、「北陸が通過するから23時過ぎだ」とか。逆にその時間に列車が来ないと「あ、列車が遅れている」となるわけです。特徴のある音をする列車が走っていたからできたことで、今のように似通った足回りの列車ばかりだとさすがにできません。

 持つべくして持った鉄道趣味…いまでもそれは続いていたりします。

3.旅にいざなった本との出会い

 翌年の1988年、地元の中学に入学するころになると、鉄道趣味よりは、列車に乗ってどこかへ行ってみたいという欲求が高まっていきます。この年頃というのは、親元から離れて自分で何かをしてみたいという欲求に駆りたたれるものです。

 目の前を走る列車に乗ってどこか遠くへ行きたい――。しかしどうすればいいのだろう…。

 そんな中、図書館で一冊の本に出会いました。レイルウェイライター、種村直樹氏が書いた「鉄道旅行術」(JTB刊)です。これは私の「しかしどうすればいいのだろう」という「悩み」を解決する糸口になりました。旅行先で何らかのトラブルが起きたときの対処方法が書いてあるところに心強さを感じたのです。これを通じてYH(ユースホステル)の会員になり、時刻表やガイドブックを眺めながら、行先を考えることになりました。

 1989年の春、私は長野方面に出かけてみることにしました。使用した切符は「信州ワイド周遊券」に名古屋回りのオプション(L券)をつけたものです。もちろん学割です。

4.はじめてのひとり旅の思い出

 初めてのひとり旅ということもあって、計画は何とも綿密にした記憶があります。今となっては、長野に行くくらいのことで、と思うのですが、当時は出かける前からさまざまな期待や不安が頭をよぎっていましたから、当然、綿密になるのも無理はありませんでした。ご丁寧にも、「予定表」などといって、小学生が遠足で持っていくような「しおり」を自作したりして、分単位で計画を組んでいた覚えがあります。今思えば、そうすることで自分の旅を演出したかったのかもしれません。

 しかし、いざ出かけてみると、この分単位の予定は少しずつ崩れていきました。YHに泊まるまでの予定は決めていましたが、別所温泉の公衆温泉をハシゴし、上諏訪駅の構内露天風呂に入り…これらは全く事前の予定には含めていませんでした。確か夕食は上諏訪駅構内営業のラーメン屋で済ませ、帰りは夜行急行「ちくま」号に乗って名古屋経由で帰りました。「夜行列車に乗ってみたい」という以前からの願望をかなえたいと思ったからです。篠ノ井線姨捨付近の夜景を食い入るように眺め、ボックスで向かいの席に座っていた初老のおじさんと話したり、横たわって眠った記憶が今でも鮮明によみがえってきます。

 朝早く名古屋駅降り立ち、早朝から開いている食堂で定食の味噌汁を飲んだ瞬間、なぜだか眼から涙があふれそうになりました。宮崎駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」で、出されたおにぎりを食べているうちに主人公が泣き出すシーンがありましたが、ちょうどあの主人公のような心境だったのかもしれません。見知らぬ街、誰も自分のことを知らない。そんな中で不思議と「暖かい」食べ物に出あったときにどこからともなくわき上がる感情…。
 しかし、「ひとりで出かけたからには、決して泣いたりはしない」という意識が自分にはあって、必死に涙腺の緩みをこらえながら朝食を摂った覚えがあります。もちろん、半分ホームシックも含まれていたと思いますが。

 帰路の列車に乗り始めてからは車窓が寂しさを忘れさせてくれました。帰りの熱海から東京までは、東海道線の2階建てグリーン車に乗ってみたりしました。

 ひとりで旅の計画を立て、泊まる場所を予約し、それを実行する…その達成感と充実感を得たことは今後の私の生き方を変えたといっても過言ではありません。「幼稚園の頃、祖父母の家に一人で泊まりに行ったら淋しくなって帰ってきた俺でもできるんだ」という自信がつき、第2回目のひとり旅を企てることにしました。
 次は夏休みです。

5.仙台へのひとり旅

 その4ヶ月後、私は東北へ足を踏み入れました。8月の帰省ラッシュの終わりでした。  上野発22時37分、青森行きの急行「津軽」号の座席に横たわって、山形を目指しました。行き先は…仙台でした。たかだか仙台までの距離を、夜行急行を使って、しかも山形回りで出かけたわけです。
 「夜行列車に乗りたい」という願望が強かったのは先にも述べたとおりですが、そのために旅の予定の中に必ず夜行列車に乗る行程を入れていたわけです。夜行急行列車の少なくなった今としては、当時、無理してでも乗っておいてよかったと思います。

 朝の仙台駅に着いて驚いたのは、列車が発車するときの音楽でした。東京地区のような、同じ音色がサブリミナルテープのように流れるものと違い、「曲」として完成しているものを聞いたのはこれが初めてでした。この曲が「青葉城恋唄」のアレンジであることは後になって知りましたが、今でもこの発車音楽は人気がありますよね。

 この旅では、松島を回り、YHをベースキャンプとして、仙台市内を市内路線バスでまわるプランでした。その時に泊まったYHは「仙台道中庵YH」。このYHがなかなか特徴的で、門構えから、建物に至るまで全て和風。当時、寝室の2段ベッドのマットレスはなんと畳でした。

 このYHの同宿者は、夏場ということもあり、大学生が大半でした。中学生の私は、同宿の人たちが話すこと、行うことが全て新鮮に見えました。私が大学に入りたいと思ったのも、自分の趣味が勉強に活かせたら(当時は地理学に進みたいと考えていた)、ということだけでなく、大学生になれば長い夏休みを使って、旅に出られるという願望もあったからです。実を言えば、大学生時代はサークル活動中心の生活で、ひとりで旅に出る機会はあまりなかったのですが…。

6.遠野で俵万智に取材を受けた!?

 ひとり旅に慣れると、今度はさらに遠くへ行きたくなってきます。
 JRのパンフレットを何気なく見ていたら、ある2文字の地名に私の心は強く惹かれました。

「遠野」

 なぜこの「遠野」という地名に興味を持ったのかは分かりませんが、これは直感的なものとしか言いようがありません。しかし、パンフレットには遠野の街に関する写真が載っていません。さらに興味が湧いてきます。私は市内の図書館に足を運び、遠野在住の写真家、浦田穂一氏による「写真集・遠野物語」を借り、その地の風景を見たところ、一度走り出した武者震いが止まることを知らぬ状態に陥りました。このような風景が現代に存在するのか。自ずと次に出かける場所は決まりました。

 1990年の春、「青春18きっぷ」を使って、自宅の最寄り駅から遠野まで普通列車を乗り継ぎます。一ノ関から乗った列車はなんと電気機関車の牽引する赤い客車でした。発車時のガクンというショックは初めて体験する乗り心地でした。
 9時間をかけて東北本線を下り、釜石線へ。途中の宮守付近の勾配で列車がクルマに抜かれていく風景に何ともいえぬ哀愁を感じました。
 遠野では、例のごとくYHに。「遠野YH」も私にとって思い出深い場所です。この話をするときりがないのでここでは省略しますが…。

 伝承園という施設でわら細工を地元のお婆さんより教えてもらっていたとき、雑誌の取材がやってきたときのことを思い出しました。そのときの記事は、のちに河出書房新社の「夏休みこども時刻表」(90年版)の、歌人、俵万智氏のコラムで紹介されました。読んでみれば何と私のことが書かれているではないか。名前も写真も載らなかったにせよ、これには驚きを覚えました。以下のようなくだりです。

   地元の子供ではないようだ。
  「ぼく、どこから来たの? 何年生?」
  「埼玉から。中学二年生だよ」
  「ふぅん、家族と一緒に?」
  「ううん、一人」
  そう言ったとき、少年の目は誇らしげに輝いた。
  埼玉から一人旅。彼も時刻表を片手に、ここまでやって来たのだ。
 (以上、俵万智氏による「賢治と風のものがたり」より。河出書房新社「夏休みこども時刻表」1990)

 「春先に埼玉から遠野へ来てわら細工を習う中学生」
は「サラダ記念日」の俵さんを目の前にしながら、その存在を知らなかったわけです。無知とは恐ろしいものです。

7.旅を記録する

 その後、私は1台のノート型ワープロを買ってもらい、自分の旅を文章で記録することを覚え始めました。ワープロはとても便利な機械でした。旅から帰って、自分の思い出や体験が吹き出すのを1台のワープロが全て受けとめてくれるわけです。そして、書いた文書を編集するのも簡単、保存するのも簡単でした。あらためてすごい機械だと感じます。
 こうして私は、その後数回のひとり旅の記録を文書でまとめ、「ワープロで読む本」と題した一枚のフロッピーディスク(2DD・640KB)に収録しました。このデータが、現在、「Webでする旅」で公開されている旅行記の元になったものです。

 インターネットが普及し、現在こうして、非常に安いコストで拙作が公表できるような時代になったことはとても嬉しいことです。

 旅には人それぞれの楽しみ方があります。十人いれば十通りの旅があるといっても過言ではありません。私は中学生のときにはじめてひとり旅をして、旅の楽しさを自分のものにしました。それ以来、何度かの旅をしながら、「旅の楽しみって何なのだろう」という問いを常に問うているわけですが、個人的には
「何気ない日常の風景を視点を変えて再発見する」
ことにあるのではないかと思います。

 私が旅に出るのは、自分の住む街とは違う風景が見えてくるからです。普段いる場所を離れて、違う風景を見ることで、自分のいる場所、そして自分の存在を再確認することができると考えるからです。

 風景には、そこにいる人々の暮らしぶりも含まれます。人間の営みを無視した風景というものは風景ではありません。「風景」とは非常に有機的で、動的で、しかも一つとして定まるものはありません。

 そんな風景を見つづけ、さまざまな発見をする旅を私はこれからも続けていきたいですし、さまざまな発見を記録し続けていきたいと考えています。

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