仮説・「 黄鳴子 」が消えたのはなぜか?

鳴子_勇_1971

黄鳴子とは

黄鳴子」とは、大正中期からに昭和初期にかけて鳴子で作られた、黄色の下地塗りを胴部に施したこけしのことで、西田峯吉氏(鹿間時夫氏という説もあり)による造語です。

起源は諸説ありますが、肘折こけしで胴を黄色く塗る手法が隣接産地に伝わったというのが有力です。手間と時間のかかる漂白や研磨をせずに木地のくすみをマスキングできることから大量生産に適しているとして広まっていきました。

戦後は黄色に塗らず、いわゆる「白胴」で製作されることが主流になりましたが、現在も当時の作例を継承・復元した作品が僅かながら作られています。

「黄鳴子」の発生過程はいくつかの文献を当たると出てきますが、「なぜ黄色に塗らなくなったのか?」という点は個人的に興味深く感じるところが数多くあります。

興味をそそる「消えた理由」

「辞典(p164)」を読んでみると
1.戦後、研磨を丁寧に行なうなど加工技術に変化があった
2.戦時疎開している子どもから「黄疸みたいだ」と揶揄された

という理由が書かれています。
1.は電動式ろくろの登場で省力化できたことから研磨が容易になったり、薬品(過酸化水素、アンモニア)や機械を使った木材の処理技術が普及したからと理解できます。

ただ、2.の「黄疸みたいだ…」という理由は果たして本当なんだろうか…と思います。
現在は顧客の強いクレームによって商品の仕様やサービスが大きく変わるケースが多々ありますが、国難である戦争の時代に主観的、感情的なクレームひとつで数十軒もあるこけし工房が一斉に作らなくなるようなことがあるのでしょうか…?

「こけしは玩具でメインユーザーが子どもたちだから、子どもたちの意見を忌憚なく聞き入れて商品に反映させる」というカスタマー・サティスファクション的なスタンスが戦中から終戦直後にかけて本当に存在していたかどうかは考えてみる余地はあります。

染料に着目

戦後まもなく「黄鳴子」が消えた理由にはもっと決定的なものがあるのではないか? と感じていくつかの仮説を立ててみることにしました。
そこで注目したのはこけしの材料のひとつ、「染料」です。

こけしの絵付けには墨と染料が使われています。
なぜ染料なのか? という理由には、

  1. 安価で入手しやすい
  2. 玩具である
  3. 透明性があり木の質感が残る

が挙げられます。
併せて、戦前に使われていた主な染料を挙げてみます。

染料名備考
赤色エオシン、スカーレット
黄色オーラミン
緑色マラカイトグリーン
紫色メチルバイオレット

表に記した染料のほとんどは当時、食用色素として広く流通されていたもので、薬局や食料品店で入手することができました。地域には小正月にカラフルな「みずき団子」を作って供える風習がありますから、これらの食用色素は常に入手できたと考えられます。

また、こけしをはじめとする木地玩具は子どもが手にして遊ぶことを前提に作られていますから、毒性の高い材料は使えません。当時、食用色素として出回っていたこれらの染料は「口に含んでも大丈夫」と考えられていました。

さらに、木材に色をつける材料には、漆、水彩絵の具、油彩、岩絵具などがありますが、これらは高価なうえ、都市部の画材店など入手できる場所が限られていることから材料の確保が困難です。

こけしに使う材料を当時の地域における風習、交通・流通事情から見ていくと結構興味深いものがあります。

物資不足とオーラミン規制が原因か?

では、「黄鳴子」の消えた理由と、染料にはどのような関係があるのでしょうか。
ひとつは戦中から終戦直後の物資不足、もうひとつは食用色素の規制です。

戦中の物資統制で化学製品の入手が困難になります。染料も化学製品のひとつですから入手はおのずと困難になることが考えられます。終戦を迎えても日本は敗戦しましたから物資不足は戦時中以上の状態になります。

ならば、物資供給が回復すれば染料も入手しやすくなるから黄色のこけしが復活するのではないか、と思うのですがそうはなりませんでした。どうしてだろうか…と疑問が出てきます。

ここでとある法規が目にとまりました。食品衛生法(1947年制定)の具体的な施行をまとめた厚生省令食品衛生法施行規則(1948年施行)です。
この施行規則で除外された食用色素があります。それが黄色の色素、オーラミンです。

オーラミンは発色が鮮やかでしかも安価なため、服飾品の染色や食品の着色など幅広く使われていました。特に漬物のたくあんではその見栄えのよさからオーラミンを使った着色がポピュラーでした。

ところがオーラミンには強い毒性と発がん性があることが分かり、食品での使用は適切でないとして食品添加物から除外されたのです。

食品添加物から除外されれば食用色素として流通させることはできません。いままで容易に購入できたオーラミンは一転して入手困難になります。

戦中から終戦直後の物資不足と、戦後の法規制から材料が手に入らなくなり、黄色いこけしは姿を消してしまった、と考えることが可能ではないでしょうか。

ちなみに、法規の施行後も「代替品では色が出ない」としてオーラミンを不正使用していた食品製造業者も一部にありました。消費者団体の「オーラミンたくあん追放運動」が盛んになり、厚生省(当時)が食品工場を一斉摘発して使用を禁止させたのは1953年です。

なお、エオシン(食用タール色素赤色103号)は1971年に除外、マラカイトグリーンもかつてはそら豆の着色に用いたり、熱帯魚の白点病治療剤として粉末状のものが市販されていましたが毒性の高さから入手困難になりました。

現在の「黄鳴子」

現在作られている「黄胴のこけし」に使われている染料は「タートラジン」と呼ばれるもので、食用タール色素黄色4号として市販されています。

参考

→「着色料規制法令の変遷とその考察(第2報) 食品衛生法施行から現在まで」(PDF)
→「ミニ染色講座(8)合成染料物語」(名阪カラーワーク研究会,1999)

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こけしを描き続けた菓子職人 〜 佐々木久作 工人作より〜

なぜ中古のこけしがアンティーク玩具店ではなく、古書店に並んでいるのだろう? という疑問をかつて持ったことがある私ですが、近頃になってその意味が自分なりに理解してきました。
一本のこけしには一冊の本に匹敵する情報が詰まっているからなのだなと…。

さて今回は「伝統こけしのデザイン」(Cochae 2013)のページデザインを思い出すような背景色で撮った 佐々木久作 工人(1913-1983)の作品です。

久作工人は秋田・象潟の方。今は「にかほ市」になっています。
近年注目されている版画家・池田修三氏(1922-2004)と同郷です。

調べてみると来歴がなかなか興味深く、往年のテレビドラマ「おしん」を地でいく人生を送られていたことを知りました。

本業は菓子職人でした。
本荘の老舗、「三之助もろこし本舗」で丁稚奉公中に日中戦争で徴兵、その後象潟で菓子屋さんを開業するも砂糖不足になり、新たな職をつけるため習得したのが木地挽きでした。戦後、再び菓子屋さんを営む傍ら趣味でこけしを作っていたとのこと。
師匠は高橋盛工人。

画像は推定・遊佐福寿工人の木地に久作工人が描彩を施した作品です。木地は日本海側でよく使われるイタヤではなくミズキです。

参考

「こけしに鎮魂の思い」(秋田魁新報 2014.3.2)

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