STIJ Project Logo -
-
- STIJ News 現代飲料考 月刊 看板
巷の風景 My Trip私の旅 STIJ Projectについて 近隣諸網
トップページへ 携帯端末向けコンテンツ -
  関連ページ
STIJ News
イチ押し ダメ出し目次
きょうのことば
巷の風景

最近のイチ押し ダメ出し 1038

 お受験殺人事件(2)−閉じた世界の一喜一憂

1999年12月5日

 前回に引き続き、東京都文京区で発生したいわゆる「お受験殺人事件」の話題です。その後の調べで被疑者は、子供の受験失敗が原因ではない、と供述していますが、直接の原因でなくても、遠因として学校受験があるという意味で、またこの事件に学校受験の低年齢化が深く関係していることから、「お受験殺人」のことばを引き続き使いたいと考えます。

 被疑者は「近所付き合いのもつれでストレスが溜まっていた」と供述を始め、自他ともに把握できなかった「怒りの構造」が少しずつ明らかになろうとしています。さて、この供述内容についても深く考えさせられる問題がふんだんに含まれているような気がします。

 ふと考えると、地方から引っ越してきた被疑者にとって、この東京都心の、しかも子供の受験熱が高い地域で人間関係を持とうとするのは、それ自体でストレスだったのではないでしょうか。

 現在、近所付き合いが疎遠になっているといいつつも、小さな子供がいる家庭では深刻な問題です。「公園デビュー」という、胸が苦しくなることばがありますが、子供が生まれて一番最初に連れて行った近所の公園。そこで見た同年代の子供を持つ親のグループによって子供の一生が決まってしまう、といっても過言ではありません。もしこの親のグループが非常に教育熱心だとすれば、否が応でも「お受験」のレール上を走ることになります。

 20数年前だったら、子供の数も親の数も多く、さまざまな価値観の持った人たちが公園の中で遊んでいたでしょう。むしろ、特定のグループを作らなくても、相手の住まいや名前を知らなくても、同じ小さな子供を持った親どうしで世間話をするなどという風景はどこにでもあったはずです。別に隣の家の子供が受験しようと自分の家は関係ない(しかしどこの学校に行ったかは非常に気にする)、家の方針で子育てをすればいいという考えがどこかにあったのかもしれません。

 けれども、子供の数も少なくなった現在、見知らぬ親に声をかけることも難しくなりました。ただ単に親の数も少ないということに加えて、パーソナリティ的に「自分が気に入った人とは付き合うけれども、ちょっとでも気に入らなければ徹底的に排除する」という価値観があるため、似たような価値観を持つ小さな集団を作っているからです。

 公園に足を踏み入れた瞬間、この集団に加わるか、孤独を歩むかの二者選択を迫られます。孤独への耐性がなければ、集団に加わる道しかありませんが、その集団も対外的に重いバリアーを張っています。そのため、事前に情報を入手したり、手回しをして集団への「傾向と対策」を立てて加わるわけです。しかしこの集団、一度足を踏み入れると二度と抜け出すことのできない「ブラックホール」ということにはその時点では気づきません。孤独を脱したい気持ちの方が強いからです。

 もし、「教育熱心な親のグループ」という小集団があるとします。この集団はまるで企業か新興宗教団体のように組織化していきます。似たような価値観を持つ人が集まれば、意図的でなくともこのような組織が作られるのですが、まるで会社の事業計画のように子供を(親たちの価値観で言うところの)いい学校、いい会社に入らせるための教育計画を推進させていきます。明確な「目的」を打ち出すことで、この集団の「存在意義」を高めているのです。ここからは狐と狸の化かし合い。非常に狭く閉じた組織の内部で心理戦的競争が始まっていくのです。これは子供が就職するまでの20数年間続くわけです。さらにリーダー格的な人も出てきて、他の人に命令的な口調でのサジェスチョンが始まります。「あなたの育児がなっていないからよ」、「ここは東京なんだから、田舎とは違うのよ」…。

 普通ならば「こんなことやっていられるか!」と逃げてしまえばいいのですが、もし、自分の身の回りにこのような世界しかなかったら(と思い込んでいたら)、どんなに理不尽であってもこの中にとどまって、表面的に他と合わせていくことを選ぶかと思います。近所付き合いで「お受験」に巻き込まれる。こんな理不尽なことが起きていたとしたら、そのストレスは想像を絶します。

 他者と必要以上の関係を持ちたくないけれども、自分と意を同する人たちへは深い関係を求めたがる。しかし、その程度が分からない。喧嘩をしていて手加減が分からなくなることに似て、他人の心や自分の心に対する加減が分からなくなっているのではないでしょうか。「意を同する人たちが集まる所」の最大の問題点、それは「自分と趣味や目的が一緒だったら、何もかも一緒だ」と思い込んでしまうことです。そこには強い同化意識と異質排除の論理と感情が換気の悪い状態で漂っています。非常に狭い世界で、微々たる差に一喜一憂して、その差を大きく超えるものに対しては測定不能=排除とみなす。母親のグループも「ヲタク的集団」と化していたわけです。

 お菓子に付いているオマケカードの枚数で優劣が決まり、偏差値が0.1違うだけで志望の高校は断念、髪の毛の長さやスカート丈をものさしで測ってそこから少しでも超過する者は非行扱い…こんなことばかりを教え込まれてきた子供が大きくなったとき、乳児の成長率グラフの誤差、願書を受け取る順番や受験番号、面接のときの椅子のすわり方といった細かいことばかりに気を向けてしまうのも無理はありません。「子供にはどう生きてほしいのか?」、「自分はどう生きるのか?」といったことが考えられないその悪循環、もう断ち切りませんか。

dummy

[STIJ News] [月刊看板] [現代飲料考] [巷の風景] [My Trip]
[Stij Projectについて] [近隣諸網] [For Mobile] [to Toppage]
当サイト掲載の文書・画像・音声等の無断転載を禁じます。
dummy
dummy